震災

あの3.11の大震災を経験したことが、転機となり、病気を治そうと本気で思いました。

 

病気で絶望を感じ、どうしようもなかった頃・・・でお伝えしたように、私は入院というストレスで発生した病気に長年苦しみ、遠方の医療機関に行ったりして、なんどか楽になりたいと闘ってきました。

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通院の連続

しかし、一向に症状が上向く気配もなく、悪戦苦闘の連続でした。

東京に転居した二男が住んでいるマンションに居候して、地元の愛知県と行ったり来たりしながら、治療を受ける日々でした。

地元と東京を行ったり来たりを始めたのは、発病から4年、退院から1年半経っていました。

 

簡単に移動と言っても、一人で歩けない状態ですから、駅の階段も必ず手すりがある側をゆっくり歩き、荷物を持つだけで、肩が引っ張られて頭に堪えるので、荷物はできるだけ軽く、せめてもの自衛策でした。

 

渋谷の治療院へ

この頃東京にいるときは、他にやってくれる人がいないので、どうにか料理と洗濯をするようになっていました。

丁度同じ頃、入院中に知り合ったさいたま市に住んでいるN子さんから、電話があり、渋谷にある治療院に来ないかと誘ってきたのです。

その治療院には、N病院に入院していた数人がかかっていて、N子さん以外はみんな治っているというのです。

私は鎌倉の治療院に行っていたけど、その話しを聞いて、私も治療院を渋谷に変えました。

 

渋谷の治療院の先生は、かなり年配でしたが、自慢することも威張ることもしません。

本当になんだか不思議な先生でした。

毎回粛々と治療が過ぎていくのですが、先生一人で予約制なので、私とN子さんが治療院で顔を合わせることもなかったのです。

 

私もまだまだしんどくて、人と話すのも辛かったので、N子さんも重症で、家事も何もできず、ただ埼玉から渋谷までやっと通っているという話しでした。

運命の3.11

2011年の2月から渋谷に通い、そして運命の3月11日金曜日午後2時46分、その渋谷の治療院があるマンションのエレベーターを6階で降りた瞬間でした。

同じフロアの他の会社の人たちが、激しい揺れにパニックになって、地上に階段で降りてい行きました。

 

私は、治療院のドアを開けて、「先生地震ですよ!」と叫んだら、「このマンションは頑丈だから、中にいる方が安全、入っておいで」と言われ、部屋に入り、少し休んでから治療を受けました。

すぐにテレビをつけて、大地震だと知りました。

治療の最中も余震が酷く、先生は電車が止まるよ、と言っていました。

 

治療を終え階段で地上に降り、渋谷駅まで戻ったときには、もう西武デパートはシャッターを降ろしていました。

先生の予想通り電車は止まり、寒いので屋内にいるしかありませんでした。

私は、デパ地下に行って、食べ物と飲み物を買い、地下に続く階段に座って、JRの再開を待っていました。

 

避難所の救護室へ

夕方、JRは今夜中に安全点検をして、明日朝から走らせることが判り、近くの避難所である10分ほど歩いた大学の体育館に着きました。

体育館の中は、ものすごい人で、管内放送で「具合の悪い人は救護室にお越しください」と聞いたので、救護室に行き、自分の病状を言い、暖房の効いた救護室で横になることができました。

 

しかし、ここで一晩過すしかないし、明日朝電車が動き出しても、私のようなふらつく体では、大勢の人に押されてケガをするかもしれないので、多分相当の時間待つしかないと諦めました。

地元にいる夫には、通話もメールも届かなかったけど、自分の居場所を知らせるメールを一応送信しておきました。

 

因みに救護室は暖房が効いて暖かく、毛布も使えたのですが、体育館は寒く、アルミシート、食べ物、飲み物の支給だけはありました。

救護室で、毛布が少なくなると、直ぐに電話で追加の要請をしていました。

この大学の体育館での避難受け入れ体制は、統率がとれている印象を受けまし

 

その間も余震があって、救護室の中は、具合が悪くて吐いている人や赤ちゃんもいて、とても今夜は眠れそうにないと思いました。

 

その後東京メトロ銀座線が再開したと発表されたので、二男は若いので、上野まで帰れたら、マンションまで歩けるだろうと想像しました。

 

避難所を出てメトロに乗り自宅へ

すると、11時ごろになって、二男がその救護室に来てくれました。

二男と夫が奇跡的に電話が繋がったらしく、私の居場所を伝えたとのことでした。

しかし、救護室は、家族まで入ることはできません。

 

二男が来たので、地下鉄でできるだけ近くまで行き、そこから歩いてマンションまで帰ってもいいので、とにかく避難所から出て、家に帰りたかったのです。

 

私たちは、表参道駅からメトロに乗りました。

地下鉄が、途中で止まってしまい、また今夜中は動かないとのことでした。

地上が寒くて、暖を取るために、ホームに人が降りてきて、危険で電車を走らすことができないというのが、実情でした。

 

大災害が発生しても秩序が保たれている国

地下鉄の中は暖かく、眠っている人もいました。

大災害が起きた夜中の2時に、電車の中で眠れるというのは、日本はいい国だなと思いました。

電車の中で朝まで待つのも方法でしたが、やはり早く家に帰りたかったのです。

再開した他の路線に乗り換え、王子駅まで帰りました。

王子駅前は、タクシーを待つ人で長蛇の列だったので、カバンを二男にもたせ、ふらつく体で歩いて、最後は建物の壁に捕まりながら、尾久のマンションにやっとたどり着きました。

 

マンションの部屋に戻ったのは、3月12日の朝4時を過ぎていて、部屋の中は本が少し落ちていたぐらいでした。

しばらくテレビを見てお風呂に入り、眠りました。

 

生きるためには病気を治したい

私は、わずか2日の間に、想像したことがないことを経験しました。

あの渋谷の暗い夜の空から「生きなさい」と言われているようで、自分が取った行動が、消えてしまいたいと思ってた気持ちとは裏腹に、食べ物を買い、救護室に行き、壁伝いに歩くといった生きるための行動でした。

 

人間は、とっさに生きようとするんだと思い知りました。

この3.11の体験が、転機と言えば、転機だったと思います。

どう捉えるかは、人それぞれですが、私は、生きなきゃと考え、生きるためには、病気を治して楽になりたいと思い、治療を続けています。

 

その後私は、夏バテして東京での治療を諦め地元にもどり、地元で医療機関を探しました。

その後渋谷の治療院の先生は、突然倒れて、マンションの治療院があった部屋は、現在は他の会社に変わっています。

N子さんも震災の翌年あっという間に亡くなり、遺影との再会となりました。

私が渋谷に通っていたことを知る人がこの世にいなくなりました。

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